第8回 |
一般社団法人
全国訪問看護事業協会
中島朋子さん・看護師
一般社団法人全国訪問看護事業協会 常務理事
【PROFILE】
なかじま・ともこ
株式会社ケアーズ・東久留米白十字訪問看護ステーション所長。1986年看護師資格取得。一般病院勤務の後、渡英。帰国した1995年より訪問看護に従事。99年に介護支援専門員、2003年緩和ケア認定看護師、12年に主任介護支援専門員、16年には在宅看護専門看護師の資格を取得。『訪問看護が支えるがんの在宅ターミナルケア』(日本看護協会出版会、共著)など著書多数。
訪問看護師としての実践はもちろん、スタッフ約20名(非常勤含む)を擁する訪問看護ステーションの管理者業務、看護大学や各種研修会での講義、自治体やNPO法人との連携による相談窓口の運営など幅広く活動している。訪問看護の質向上や普及・啓発に取り組む全国訪問看護事業協会の常務理事も務め、多忙を極める。現在の最大の関心は訪問看護師の人材を増やし、次世代につなげていくことで、そのプランづくりに知恵を絞る。
――まずは約30年に及ぶ訪問看護師生活を振り返っていただけますか。
中島 看護学校を卒業して看護師資格を取ったのが1986年。一般病院に5年ほど勤務した後いったん仕事をやめ、海外赴任する夫とともにイギリスに渡り、3年半暮らす間に2人の子どもに恵まれました。ただ、いわゆる駐在員の妻として仕事もせずに過ごすのは私には苦痛で、いつしか「私って何なの?」と思い詰めるようになり、毎日泣いていたのを覚えています。夫に頼るだけでなく自分なりの居場所や人脈をつくらなければと、パート看護師として働いたり、ボランティア活動をしたりすることでなんとか自分を保っていました。
この間に、日本の訪問看護は制度改正もあって急速に発展しました。1995年に帰国した時、自宅近くの病院でも訪問看護師の募集があり、早速パートから始めました。3年後、常勤職員となり、また主任とししての仕事にも慣れた頃、同法人にある設立直後の訪問看護ステーションの管理者に就任するよう転勤の辞令がおりました。32歳のときでした。ここから私の管理者生活が始まりました。
訪問看護はやりたい仕事ではあったのですが、管理業務に関してはこれといったレクチャーを受けないままでしたから、本当に苦労し、泣きながら出勤したこともありました。誰も教えてくれない分、自分が思うようにやるしかないと割り切りました。当時は終末期の方や小児の療養者を受けてくれる訪問看護ステーションがなかったので、在宅緩和ケアも小児も含め、年齢・疾患に関係なく、相談をいただいたケースは可能な限りお引き受けするという方針を打ち出し、患者さんとご家族に寄り添いながら丁寧にケアを提供したのです。すると、次第に地域の方々にも支持していただけるようになりました。
――訪問看護に携わったきっかけはどんなことですか。
中島 訪問看護も緩和ケアもあまり普及していない時代でしたが、訪問看護と終末期看護がしたかった。高校2年のある秋の日、学校からの帰り道に踏切待ちをしているときです。ふと、看護師になって訪問看護と緩和ケアをしたいと思ったのです。おかしな話をするようですが、「降りてきた」としか言いようがないのです。そこで看護師になって在宅緩和ケアをやろうと決心したのでした。
ところが親にも友達にも先生にまでも、「あなたには看護師は無理」と一蹴され…。「やらないで後悔するよりやって後悔しよう!」などとノートに繰り返し書きながら頑張り、看護学校に入りました。病院に就職してからも、自分はいつか訪問看護師になると信じて、あらゆる患者さんのケアを幅広く経験できる混合病棟を希望し、4年間働きました。
さらに、混合病棟で唯一経験できなかった循環器科の医療を学ぶべく、CCUのある救急病棟への異動を希望し、救急の仕事も一から覚えました。訪問看護師にどんなスキルが必要か、在宅看護が普及していない時代なのでわからなったのですが、在宅看護に必要だろうと自分なりに考えたスキルや知識を5年間の臨床で得ることができ、それらが在宅看護の現場で非常に役に立っています。
――2007年には訪問看護のパイオニアとして知られる秋山正子さんが代表を務める株式会社ケアーズに入職、東久留米白十字訪問看護ステーションを開設しました。
中島 私が訪問看護に取り組み始めた1995年当時は、在宅緩和ケアの参考書籍がほとんどなく、唯一手に入ったのが、白十字診療所のメンバーだった川越厚医師・川越博美看護師・秋山代表が書いたテキストで、これが私のバイブルでした。また、義兄が40代で末期がんになった時、在宅での看取りを白十字訪問看護ステーションにサポートしていただいたことで縁ができました。その後も秋山代表とは研修会や会議でよく会うようになり、仕事を手伝うようにもなりました。そんなある時、「東久留米の医師から、近隣の訪問看護が不足していると相談されたけど、どう?」と持ちかけられたのが、東久留米白十字訪問看護ステーションを開設するきっかけでした。
2007年8月、株式会社ケアーズに参加したのと同時に東久留米白十字訪問看護ステーションを立ち上げ管理者になりました。以降、白十字訪問看護として、いいケアを提供できる事業所にならなくてはという思いで必死にやってきました。
看護師4人(常勤換算2.8人)で始めた当ステーションは、看護師が11人まで増え、リハビリ職や事務職員なども含めると、約20人を擁するまでになりました。現在はマンパワーが減少していますが、年齢や疾患に関係なく受け入れる方針は今も変わりませんし、グリーフケアも心がけています。
現在は、「東京都訪問看護教育ステーション」に指定され、教育活動にも取り組み、さらに東久留米市からの委託で「東久留米市民のための在宅療養相談窓口」や東久留米市認知症初期集中支援チーム事業を運営し、NPO法人緩和ケアサポートグループとの協働による市民対象の「ふらっとカフェ」などにも取り組んでいます。これらは私たちの活動が一定の評価を得たということと、ありがたく思っています。
――ご苦労もあるのでは?
中島 日本の訪問看護ステーション全体の問題として、管理者の大半がプレーイングマネジャーで、訪問看護業務も担い、レセプト業務やその他管理業務を夜遅くまでやっているという現実があります。
私もそうした状態から抜け出せなかった時期があります。開設当時は組織づくりにも苦労しました。経営書などを参考に工夫を重ねた結果、今では皆で助け合い、安心して仕事ができる職場になり、事務的な仕事やレセプトは全面的に事務職員に委譲して担ってもらっています。一緒に働いてくれているスタッフには本当に感謝しています。
――緩和ケア認定看護師、在宅看護専門看護師などの資格をお持ちですね。
中島 緩和ケア認定看護師は、病院付属の訪問看護ステーションに勤務していた2002年、子育てをしながら日本看護協会看護研修学校に半年間通って取得しました。この頃、緩和ケア認定看護師は全国的にもまだ少なく、在宅医療の世界では私を含めて2人という時代でした。そのためか、在宅緩和ケアをテーマに講師や執筆の依頼が舞い込むようになりました。この頃から外部活動にも積極的に取り組むようになり、先ほどお話しした秋山代表との出会いにもつながりました。
在宅看護専門看護師の取得は、様々なご縁に恵まれて実現しました。2012年に秋山代表の紹介で私の活動が新聞記事になリ、それをご覧になった山梨県立大学大学院看護学研究科の教授から授業の依頼を受けたのですが、それが在宅看護専門看護師の資格を取るコースの一部だったのです。
看護師人生の後半に差し掛かり、これからは後輩を育てることに力を入れたい、政策に影響を与えられるような発信を現場から行っていきたいなどと思っていた私は、人生最後のチャレンジと思って2013年1月にこのコースを受験。同年春、40代後半で大学院生になりました。仕事を終えてから車で中央高速をとばして大学院に行き、19時頃からの授業に出席、その後23時まで図書館で自習してから帰宅し翌日は定時に出勤、という生活を3年間続け、2016年、在宅看護専門看護師の資格を取得できました。
――認定資格や専門資格は、在宅の現場ではどのように役立つのでしょうか。
中島 日々の業務の中で、資格を取るために学んだことが常に役に立っています。また、在宅医療のチーム内で意見を述べる時などに、しっかりしたエビデンスを示したうえで、その方にとって最適と思われる提案ができるので、納得していただきやすいと感じます。職場のスタッフと話す時も同様で、幅広い知識に裏打ちされた問いかけやアドバイスができます。こうしたことが、ご本人を含めて関係者の利益につながると思っています。
診療報酬の面では、訪問看護で加算がつくのは今のところ緩和ケア認定看護師と皮膚・排泄ケア認定看護師だけですが、加算の対象を広げるべく、全国訪問看護事業協会常務理事として、厚生労働省担当部局との意見交換なども進めています。
――全国訪問看護事業協会の活動に参加するようになったのはいつごろからですか。
中島 10年以上前から、事業協会の研修会講師などを務めていました。各種委員会活動への参加などを経て理事になり、2020年から常務理事を務めています。副会長やもう1人の常務理事と分担してJHHCAの活動にも参加しています。各団体が目標を共有できるという意味で、JHHCAの存在は大きいと思っています。
訪問看護ステーション運営と事業協会の活動を兼務するのは大変ですが、訪問看護に関する政策への働きかけも含めた現場からの情報発信、訪問看護師の拡充や質の向上、労働環境の改善などやるべきことはたくさんあります。まもなく訪れる多死社会のピークに向け、訪問看護への期待はますます高まっています。そうした社会のニーズに応えるためにも、日本看護協会、日本訪問看護財団などとも連携しながら頑張りたいと思っています。
一般の人々への訪問看護のPRも重視しています。その一環として、2019年にはNHK「ドキュメント72時間」に応募して密着取材を受けました。この番組の反響は大きく、メディアの影響力を実感しました。今後も訪問看護の実際や意義を、多くの人にアピールしていきたいと思います。
――多忙な日々ですが、息抜きしていますか。
中島 ちょこちょこ自分の時間を取るように心がけています。仕事帰りに短時間、自宅近くの気心知れたお店で大好きな生ビールを飲んだり、ちょっと高級な入浴剤を入れてお風呂に入るなど、小さな気分転換をするようにしています。
1年に1回程度ですが、数時間まとまった時間が取れる時は、海に行き、波の音を聞くようにしています。
こうした“自分へのご褒美”は、今注目されているレジリエンス(適応力を高めること)やセルフコンパッション(自分を大切にすること)の意味でも重要、と心理学の文献にも書かれています。ケア提供者である私たち自身が心身共に元気でないと、ケアを提供し続けることが困難になってしまいますので、自分を労わりケアしていくことも大事だと思っています。
――最後に、人生の最後の時期をどう過ごしたいか教えてください。
中島 もし重い病気になったら積極的な治療は受けずに、終末期は海辺のホスピスでゆっくり過ごすのが希望です。葬儀はせず、骨は海に散骨してほしいと家族にはすでに伝えてあります。でもやっぱり一番大事なのは、いつ終わってもいいように、日々を大事にすることですよね。これからの人生、後悔のないように、やりたいことは後回しにせず、精一杯生きられたらいいなと思っています。
取材・文/廣石裕子