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日本在宅ホスピス協会


西村京子さん

日本在宅ホスピス協会(Japan Home Hospice Association)役員

 

【PROFILE】

にしむら・きょうこ

2004年山形大学医学部卒業。同年自治医科大学附属病院研修医に。2007年から2年間、町立国保嶺北中央病院(高知県本山町)赴任。全国各地の地域医療を経験したあと2012年10月、神奈川県横須賀市に「秋谷潮かぜ診療所」を開設。日本プライマリケア・家庭医療連合学会認定家庭医療専門医・指導医。


風に吹かれて横須賀で開業 仲間と一緒に見つめる『いのち』の奇跡

「あの世の上手な渡り方」 と題する講演が各地で反響を呼んでいる医師の西村京子さん。神奈川県横須賀市の海と山に挟まれた地域に開業して約11年。三浦半島全域(横須賀市・葉山町・逗子市・三浦市)を対象に在宅医療を展開し、これまでに1,000人以上の看取りに関わってきた。インド通であり、28回に渡り日本とインドを行き来しながら培った死生観も興味深い。「在宅医療はいのちの奇跡に溢れ、心が躍ります!」という西村さんに、開業までの経緯と日々の活動を聞いた。



生活の場は宝の山。僻地医療の経験から在宅医療を志向

――岡山県のご出身で大学は山形。栃木県の自治医科大学附属病院での研修医生活を経て神奈川県横須賀市で開業されました。独立するまでにどんなストーリーがあったのでしょう。

西村 私は岡山県北部の田舎で育ったせいか、医学部在学中から都会で働く専門医より、診療所が1軒しかないような田舎で何でもこなしながら、医師である前に一人の生活者として住民の皆さんと関わっていくような働き方の方が、しっくりきていました。

 大学を卒業したのが、ちょうど新医師臨床研修制度がスタートした年で、このとき自治医大病院に就職したのも、オールマイティな医師を目指す者として、地域医療に強い自治医科大学で、全科を通じて充実した研修をしたいと思ったからです。

 初めて本格的に僻地医療を経験したのは、研修医4年目から約2年間赴任した高知県本山町の町立国保嶺北中央病院でした。住民の方々に助けられながら、目の前に現れるさまざまな患者さんに全力で対応し、経験を重ねていく日々の楽しく、このまま一生高知に住みたいと思ったくらいでした。

 

――それでも大学病院に戻られました。

西村 人事の関係で泣く泣く(笑)。でも、戻って数カ月で開業を決意しました。大学病院の医療は不可欠ですし、素晴らしい先生方の指導のもとで多くを学べる恵まれた環境なのですが、患者さんや地域との距離感が私にとっては遠く、もっとお一人お一人に寄り添いたいと思いました。

 

――その頃から在宅医療は意識しておられたのですか。

西村 はい。在宅医療にはもともと興味がありましたし、高知時代にその地域ならではの訪問診療を経験させていただきました。患者さんのご自宅、生活の場というのは、患者さんを知るための宝の山です。その宝庫に伺い、患者さんやご家族の生き様を見せていただきながら、そのお一人おひとりに合った医療を提供し、希望を持って生きられるようにサポートする。そしてお看取りまで引き受ける。それはとても興味深く、心が踊る時間です。


どんな人も受け入れ、最期まで寄り添う

――横須賀で開業した理由は?

西村 開業場所に関しては特に当てもありませんでしたので、「ここ!」と思える場所を求めて、僻地診療支援などを通して全国各地の地域医療に触れるようにしていました。そんなある日、栃木県のJR自治医大駅から湘南新宿ラインに揺られて神奈川県の逗子駅までまで行ってみたんです。そしてホームに降り立つと、ふわっと風が吹いてきて。なんて気持ちがいいんだろうと感じました。その瞬間、「ここにしよう」と決めました。診療所の名前についている「潮かぜ」は、このときの風のことなんです。

 

――運命的ですね。

西村 あとのことは引っ越してから考えようと思って、年度末で退職して横須賀市の隣の葉山町に引っ越しました。その後、週1回、世田谷で在宅診療勤務をして、その足で水戸に移動し2日間当直を含め在宅医療勤務、翌日帰宅して横須賀の診療所に勤務する生活を続け、開業資金を貯めました。月1回の北海道厚岸町での僻地医療支援を続け、そんな生活を続けながら、地域の皆様ともできるだけ関わるようにしていました。

 横須賀市秋谷という地区に診療所を構えることになったのは、当時の横須賀市医師会長山形寿太郎先生から忘年会の席で「秋谷に医者がいなくて、困っているんだよね」という一言がきっかけでした。秋谷とは、海と山に囲まれた風光明美な急峻な土地に住宅が点在する地域で、古くからの地元の方々が多い半面、別荘が立ち並ぶリゾート地でもあります。そんな特殊な場所でやっていけるのか自信はなかったのですが、これもご縁と思い、不動産屋さんに飛び込んで相談したら、素敵な古民家が見つかりました。地域の民生委員も務める大家さんに直接、自分のやりたいことをお話し、ご賛同頂き、開業することができました。

 開業当初は、山形大学の同窓生である下川広治現理事長と2人だったのですが、だんだん仲間が増えて、今は常勤4名、非常勤4名の医師8名体制で、外来診療と24時間365日の途切れのない在宅医療に取り組んでいます。

 

――施設情報によると、スタッフに看護師がいませんね。

西村 医師以外のスタッフは事務スタッフ16名、公認心理士2名、弁護士1名、公認会計士1名です。当初は看護師もいたのですが、そうすると地域の訪問看護ステーションを頼らなくなってしまうと考えました。在宅医療はそれぞれの地域の専門職とチームを組めなければ広がりません。地域により密着するためには敢えて自院には看護師を置かないとう下川理事長の方針が、地域の訪問看護師さんを頼って、より関係性を深めていくことにつながりました。今では、患者さんの状態や地域によって変幻自在にチームをつくり、こまめに連絡をとりながら、500人前後の在宅患者さんをサポートし、年間200人近くの方のお看取りをさせていただいています。

 医療法人潮かぜ会の方針は「どんな方でもまずは受け入れる」。困難事例であっても、断らず、できるだけ寄り添います。ひとつ一つの「いのち」を守るためには、地域で働く、訪問看護師さんやケアマネージャーさん、民生委員さんなど、お一人ひとりとの信頼関係が不可欠です。その信頼が患者さんのニーズに応じたチームを作る力になり、どんな困難も一緒に知恵を絞って乗り越えていける希望を生みます。今後、もっと顔の見える地域力を高めていきたいと思います。もっと楽しく、もっと個々人として絆を深めたいと思い、近くの事業所単位で声をかけて、パーティーを開くなど飾らないコミュニケーションを図っています。

2023年から始めた地域の専門職とのチーム単位での交流会の様子
2023年から始めた地域の専門職とのチーム単位での交流会の様子

いのちを信じて、旅立つ力を邪魔しない医療のかたち

看取りに目覚めたのはいつ頃ですか。

西村 開業前に、同じ横須賀市内にある野村内科クリニックで仕事をさせていただいたのですが、その時に院長の野村良彦先生のお看取りに同席させていただいたときです。野村先生は、「第2回赤ひげ大賞」(主催:日本医師会・産経新聞社)を受賞された方でもあり、本当に“あったかーい”お看取りをされるんですね。何でもやってあげようとしてしまいがちな医療の体制の中で、「やらないということをやる」という医療のかたちを教えてくださいました。いのちを信頼して、旅立つ力を邪魔しないことで、人は本当に苦しまずに旅立つことができるのだということを教えていただきました。

 

――日本在宅ホスピス協会との縁は?

西村 この会を紹介してくださったのも野村先生です。日本在宅ホスピス協会は、看取りのプロフェッショナルたちが素に戻って、職種を超えて自由に意見を交換し合う場です。年1回の総会で全国で活躍の方々にお会いしては、あんな苦労話、こんないのちの奇跡の話を交わします。在宅診療では奇跡がおきるのは、当たり前。映画よりも出来すぎたシナリオと半ば驚愕するような、いのちの駆け引きが繰り広げられます。そんな宝物を看取りのプロフェッショナルたちがこっそり見せ合うのです。

 「癒しを提供するものは自ら癒されなければならない」という、会長の小笠原文雄先生の考え方にどれだけ救われたことかしれません。一人で頑張るのではなく、仲間を尊重し、お互いに支え合いながら患者さんやご家族に寄り添っていく、そんなあったかい在宅ホスピスケアが広がっていったらと思います。

 

――JHHCA(日本在宅ケアアライアンス)についてはいかがですか。

西村 ニューズレター「Nexus-HHC」を毎回楽しみにしています。特に好きだったのが、太田秀樹先生の連載(「遠くの名医より近くの在宅医」)です。高齢の女性患者さんから、「私のような年寄りは先生で十分」と言われ、ご自宅で看取られたというエピソードには、しびれました。「先生で十分」というのは、「先生に賭けます」という最高の褒め言葉だと思います。信頼されていなければそんなことは言ってもらえませんし、信頼なしに最期をお任せいただくことは絶対にできません。私も「先生でいい」と言ってもらえる医師でありたいと思います。

 

――JHHCAに期待することはどんなことでしょうか。

西村 やはり情報発信ですね。「Nexus-HHC」の表紙に、「アライアンス加盟団体と行政・現場をつなぐ」とありますが、在宅医療に関連するたくさんの団体が結集するだけでも大きな力になりますし、その影響力は絶大だと思います。個々の団体を超えた立場から、チームの大切さ、「いのち」との向き合い方、看取りの文化の再構築などについて伝えていただけたらより理解が深まると思います。


インド5000年の叡智に看取りのあり方を学ぶ

――ところで、ご趣味はインド舞踊とか。

西村 そうなんです。2016年に友人を通じて北インドの聖地ヴリンダーヴァンの寺院に通う日本の僧侶と知り合い、そのご縁でインドの寺院の寺院長のマハラージ様の来日のお手伝いをしました。そのおもてなしに喜ばれ、インドの寺院にお誘いいただいたのがきっかけで、頻繁に行くようになりました。そのうちに寺院の中に私用の診察スペースまで頂いたこともあり、コロナ禍以前だけで27回行きました。そんな中、インド在住のイタリア人舞踏家に踊りを習うようになり、細々と練習しながら、何とか人前で踊れるようになり、最近は、インドの寺院に踊りを奉納させていただいたり、患者さんや地域の仲間の前でも披露しています。

 

――インド舞踊の魅力はどんなところですか。

西村 私が踊るのはバラタナティアムという世界最古の古典舞踊で、3000年前から寺院の中だけで神様に捧げるために巫女が踊っていたものです。バラタナティアム自体が魂の進化を促す芸術であり科学であるという古典の記載が興味深いです。ただ、何千年も変わらないものにロマンと再現性のある科学を感じ、おなじ意味で古代文字にも興味があります。2000年以上の月日の流れを遡ると「愛」は(写真参照)こう書きました。何を表す か想像してみてください。左中央の丸い部分は人 の心を表し、上から下にむけて流れる曲線は、後ろ向きにたたずむ人を表します。つまり、この古代文字は『心が後ろに残って、立ち去り難い心情』を表します。これが『愛』の古代文字です。 この文字を眺めていると、目には見えない心の動きを形象して、生きた文字の息遣いを感じる様な気がします。私たちは、何か一つだったものが分かつ時、別れのときにもっとも愛を強く感じるのかもしれません。

 訪問診療において感情が最も大きく揺れるお看取りは、死にゆく人を前に愛をもって「いのち」の本質と向き合う、看取る側も成長させてもらえる瞬間だと感じています。それが、一人ひとりの「いのち」支える力を育て、ひとの繋がりを育み、地域を育てていくと考えています。

 

――最後に、1,000を超える看取りやインドと日本の行き来を通して今、考えておられることをお話しいただけますか。

西村 いわゆる「知識」と「感情」、人間にとってどちらが優れるか、人間はどちらを優先する方か良いか、という議論がインドでは5000年前からなされていると聞いたことがあります。答えは「感情」だそうです。訪問診療において、特に看取り、という人間の感情が最も大きく揺れる場面において、私たち医療介護職は何をすべきか。こうしたインドの叡智を参考にすると、自ずと答えが出るのではないかと考えます。

 私たち医療者は、とかく感情を抑えて日常業務を行います。そうこうしているうちにいつの間にか私たちの心は硬く硬直し、共鳴しない壊れた楽器のようになってはいないでしょうか。私にとって訪問診療は、むしろ私自身の心のリハビリ。患者さんとともに、患者さんを取り巻くご家族や看護師さん、ヘルパーさん、ケアマネさんたちと一緒に笑って泣いて、時には喧嘩もして、まるでお一人お一人の患者さんが主役の演劇チームがつくる舞台のようです。そんな「こころ」踊る毎日が、私にとっての訪問診療です。そんな素敵な訪問診療の魅力を今後も発信していきたいと考えています。

趣味はインド舞踊。写真は患者さんのお誕生日会で披露した時のもの
趣味はインド舞踊。写真は患者さんのお誕生日会で披露した時のもの
「愛」を表す古代文字
「愛」を表す古代文字


取材・文/廣石裕子