一般社団法人 全国在宅療養支援医協会
榎本雄介さん
医師/医療法人あつきこころ 大貫診療所 理事長・院長
【PROFILE】
えのもと・ゆうすけ
1999年、宮崎医科大学(現宮崎大学医学部)卒業。同大学第2外科に入局し外科専門医を取得。2009年、学生時代に感銘を受けた「地域医療はまちづくりの一環」を実践するため、医師不足に悩む延岡市に大貫診療所を開業。2019年、医療法人あつきこころを設立。地域活動に積極的に取り組み、大相撲東関部屋延岡合宿実行委員長、第41・45回まつりのべおか実行委員長、平成30年大相撲延岡場所実行委員長などを歴任。現在、延岡商工会議所議員、宮崎大学医学部医学臨床教授、宮崎県医師会在宅医療協議会理事を務める。
医療は人を元気にする仕事、最期まで患者の幸せに関わる

手術を極めるためにワークライフバランスを顧みず外科医として邁進していた榎本さん。そんな生活にやりがいを感じながらも、いったん始めると医師も患者も家族も疲弊してしまう医療のあり方に疑問を持つようになった。そのときに頭をよぎったのが「地域医療はまちづくりの一貫」という医学生時代に聞いた言葉。医学生時代に地域の人との交流を体験していたこともあり、地域医療に活路を求め縁もゆかりもない土地で開業し、診療所居酒屋、市の盆踊りのギネス世界記録認証、待合室から手打ち蕎麦を見られる診療所カフェなどユニークな地域活動とともに、患者を元気に幸せにするための在宅医療に取り組んでいる。
医療のあり方に疑問、外科医を辞め診療所を開業
──ご出身は宮崎県ですか。
榎本 はい。宮崎県宮崎市です。医療とは関係のない一般家庭に育ちました。
──どうして、医学の道に進むことになったのですか。
榎本 「お医者さんはいいよ。お医者さんになりなさい」と私が小さな頃からなにかにつけて祖母に言われていたのが刷り込まれてしまったようですが、野口英世やシュバイツァーの伝記を読んだり、手塚治虫のブラックジャックが好きだったりして、将来は医者になるんだとなんとなく決めていたようです。実際に進路を決める際には人に関わる仕事に就きたいという思いもあり、宮崎医科大学(現宮崎大学医学部)に進学しました。
──大学では外科に進まれました。
榎本 ブラックジャックの影響があるかもしれませんが、実習でいろいろな科をまわるなかで、手術を見るとワクワクして、性に合っていると思いました。外科に進むならば、最も忙しいところに行こうと思い、第2外科に入局しました。朝から晩まで手術をして、患者さんがICUに入れば泊まり込んで、翌朝からまた手術をするという毎日でした。家にも帰れない日々でしたが、すごくやりがいを感じて外科を極めたいという思いもありました。
──でも、そうはなりませんでした。
榎本 外科に魅力を感じていた一方で、疑問もありました。濃厚な医療管理を受けても助からないと思われる患者さんに対して、いったん始めた医療は止められないし、そのために患者さんもご家族も苦しんでいる。私たち医療者もヘトヘトになっている。高額の医療費を投入しても結局社会復帰できず亡くなっていく患者さんが全国で毎日生まれている。こんな医療がいつまで続くのかという考えが、医師になって5、6年目くらいから湧き上がってきて止められなくなりました。
──そのような思いをどう解決しようとしたのですか。
榎本 いろいろな人に悩みを打ち明けたり、相談したりするなかで、一度日本を出てみよう、日本とは異なる価値観に触れてみたいと、海外で医療を行うことを目指しました。岡山県に本拠を置くAMDAの菅波茂理事長(当時)に理解していただき派遣先を探していただくことになり、ネパールへの派遣が決まりました。しかし、準備をしている間にネパールで暴動が起きてしまい、治安が非常に悪化して派遣が延期になってしまったのです。
派遣を待っている間に結婚して子どもができたり、親が病気で倒れたりということがあり、命の危険のあるところに行くのは難しくなってしまい、その一方で、大学の医局に戻って悶々としていて、にっちもさっちもいかない状況になってしまいました。
そんなときに、妻の出身地である宮崎県延岡市では、県立病院で医師の一斉退職があり医師不足による地域医療崩壊の危機が叫ばれる状況でした。妻の知り合いを通じて延岡市に来てくれる医師を紹介してほしいという依頼があり、それなら私が行きますと自分で手を上げたのです。私自身はそれまで延岡市とは縁がなく、後先考えずに決めてしまったのですが、ちょうど市の新規開業助成制度ができたところで第1号として認定していただき開業することができました。
──制度第1号として話題になったとのことですが、開業当初から順調だったのですか。
榎本 妻の故郷というだけで、友だちも知り合いもほとんどいないような状況ですから、正直なところ患者さんはあまりこなくて、1日一桁という日が続きました。そうするなかで往診依頼があると、暇なので行ってみようということで、在宅医療を始めることになりました。私たちの学生や研修医時代は在宅医療について習う機会はありませんでしたから、先輩の先生に教えてもらい、やりながら勉強しました。ちょうど国が在宅医療推進に力を入れはじめたタイミングで、宮崎県医師会が在宅医療協議会を立ち上げたり、多職種の勉強会や交流会ができていく時期で、私もそうした集まりに参加させていただき交流しながら学んでいきました。そうやって続けていくと、患者さんが少しずつ増えていきました。

地域との交流のなかでギネス世界記録を目指す
──それまで在宅医療について具体的に学んだことはないということですが、地域医療について触れたり考えたりしたことはあったのですか。
榎本 大学5年生のときに地域医療実習があり県内の山間部などを回りました。そのおりに、西郷村立病院(現美郷町国民健康保険西郷病院)の金丸吉昌院長(当時)が「地域医療はまちづくりの一貫である」と話された言葉がずっと頭に残っていました。開業したのは卒業後10年目でした。手術が私より上手な医師は山ほどいるだろうが、地域を巻き込むというのは自分の特性にもあっているし、面白さややりがいを感じられるならば地域医療は自分に向いているのではと思ったのです。
──特性にあっているというのはどういうことでしょうか。具体的に地域活動のようなことはされていたのですか。
榎本 大学4年生のときに大学祭の実行委員長をした際に、地元の神社の神輿を担ぎ手の高齢化のために出せなくなるという話を聞きました。そこで、医大生に呼びかけて宮司さんとも交渉して学生たちで担ぎました。私たちが神輿を担いで練り歩くと地元の皆さんに感謝されて、学生が地域と接点を持つことで地元の人たちに喜んでもらえると実感しました。このことが地域づくりとかまちづくりを意識した最初でした。その後、大学祭のために地域の和太鼓チームに弟子入りしたことがきっかけで、地域の夏祭りに出演したり、結婚式の余興として演奏したり、老人ホームを慰問で回ったりと、地元の皆さんと一緒に活動するうちに地域をすごく意識するようになりました。
──学生時代は地域との接点を持っていたのが、卒業後は外科医として手術中心の生活になっていったということですね。それでは、開業後はどうだったのですか。
榎本 開業して最初に取り組んだのは相撲部屋の合宿の誘致でした。ある関取と開業前から知り合いだったのですが、あるとき食事の席で「自分は来年延岡市で開業する」と話すと、その関取も「来年から部屋の親方になる予定」ということでした。そのときに、延岡市に部屋の合宿に来てもらうというアイデアがひらめいて、関取は了承してくれたので、市役所などに話をして、土俵を作ったり準備をして本当に合宿に来てもらいました。地域の皆さんにも相撲を見てもらい、ちゃんこ鍋を一緒に作ったり食べたりし、稽古の後には老人ホームや幼稚園、保育所に行って交流もしてもらいました。
──関取との個人的なつながりを地域のなかで生かしていったのですね。盆踊りでギネスの世界記録を作ったともお聞きしています。
榎本 延岡市には古くから「ばんば踊り」という盆踊りがあります。市民ならば子どもからお年寄りまで全員踊れます。夏祭りの「ばんば総踊り」は3,000人規模で実施します。私は宮崎に住んでいるときは盆踊りなど踊ったことがなかったので素晴らしい風習だと感動していたのですが、ある日テレビで、大阪の盆踊りが約2,000人でギネス世界記録に認定されたのを見て、延岡市ならさらに上をいけると思ったのです。私が「ばんば総踊り」を含む「まつりのべおか」の実行委員長になったときに、ギネス世界記録を目指そうと提案しました。ただ、言ってはみたものの実際にはなかなか大変で、例えば、全員同じ姿で踊る必要があるので浴衣などの衣装を近隣のホテルや旅館から集めたり、正確に5分間踊らなければ間違えた人はカウントから外されるので講習会を何度も開催したり、真夏の暑い時期なので熱中症対策にも力を入れました。医師が実行委員長をしていて万一熱中症の人が出たら、この先延岡市で診療を続けられないという思いでした。こうした皆さんの努力の結果、2017年ギネス世界記録に認定されることができました。今は別のところに抜かれてしまいましたが…。
──市民3,000人を一つの目的にまとめるのは大変なご苦労だったでしょうね。
榎本 そうですね。今後、きついことがあったとしてもギネスのときよりは楽と思えば乗り越えられます。なんといっても世界一ですから、延岡市のみなさんも自分たちに誇れるものがあると思ってもらえたことがうれしいですね。
──延岡市内での人脈もすごく広くなったのではないですか。
榎本 街を歩いたらみんな知り合いみたいな感じです。

人が集まる場として診療所で居酒屋や朝市を開催
──診療所でも、住民と特色のある交流をされていると伺っています。
榎本 診療所で居酒屋をしました。というのも、診療所の入っている建物が元々居酒屋だったのです。その1階を診療所にしたのですが、2階の宴会場がそのままでした。そこで近所の人や誰でも来られる交流会をしようと企画しました。料理は持ち寄りで帰りに100円をおいていってもらうことにしたので100円居酒屋と呼ばれました。私は作務衣を着て、医師じゃなくて大将になって、人間対人間として付き合える場としての交流会です。
──テレビなどでも取り上げられたそうですね。
榎本 そのおかげもあっていろいろな人に来ていただけました。患者さんも少しずつ増えていきました。
──診療所朝市というのはどのようなものですか。
榎本 次第に地元の人と仲良くなっていくなかで、とくにご婦人たちは診療所の応援団みたいなグループになっていきました。その人たちは、自分の畑で野菜を作っているので、週に1回朝市として、診療所の前のスペースで販売しようということになったのです。
──どのようなものが売られたのですか。
榎本 その日採れた新鮮な野菜や米、それぞれがつくった赤飯やおにぎり、稲荷寿司、惣菜などですね。それを診療所の前に並べて、診療に来られた患者さんとか地域の人がやってきて買っていくのです。一番喜んでいたのは、診療所の看護師さんでした。新鮮な野菜を安く買えるので。250回以上やりました。

目指すべきは地域の人や社会全体の幸せ
──地域の人が診療所に集まる機会をつくっていったのですね。コロナ禍のときはどうだったのですか。
榎本 こうした活動はコロナ禍ですべて中止しました。宴会でも朝市でも診療所に多くの人が集まることには問題がありましたから。
──コロナ禍後に復活したのですか。
榎本 ある程度落ち着いてきたところで朝市の再開を考えたのですが、ご婦人たちが80歳代なかばを超えて高齢となってきて、もう気力がわかないという感じでした。このままでは、地域のつながりがなくなるし、元気がなくなり笑顔もなくなってしまう。なにか集いの拠点を作りたいということで、診療所にカフェをつくることを計画しました。
最初は私が朝コーヒーを淹れる程度のことを考えていたのですが、患者さんのなかにカフェをやりたくてコーヒーを淹れているという人がいたので、その人に任せることにしました。また、その人の奥様が花屋をしているので花も売ってもらうことにし、さらに、その人が蕎麦を打つというのでカフェで手打ち蕎麦を出すことにしました。ただ、蕎麦打ちをする場所がなかったので、スペースをつくるために診療所の待合室と一緒に改装しました。その際にカフェと待合室の間の壁をガラス張りにして、診療待ちの間に蕎麦打ちの様子が見られるようにしました。診療が終わった後に蕎麦でも食べて帰ろうという気になってもらえればと思いましたが、今では蕎麦を目当てに県外からもお客さんが来ています。
──サウナも新しく作られたそうですね。
榎本 私自身はサウナはそれほど好きではなかったのですが、付き合いのある薬剤師に連れて行かれたときに「整う」という感覚を体験して、すごく気持ちが良かったのです。悩みが飛んでいくという感じでした。それならばと、薬剤師と一緒に心身ともに健康になれるサウナをつくることにしました。この世界では著名な人にプロデュースしていただき、診療所に予約制のプライベートサウナをつくりました。
──開業以来、さまざまな形で地域の人との交流を実現されてきました。
榎本 開業するときに、医師は何をするべきかというのをすごく考えました。病気やけがを治す、命を救うというのが一般的に言われることですが、人は必ず死ぬわけですから、患者の死は医師にとっての負けなのか。そうでないとすれば、何を目指すべきかと考えたときに「幸せ」だと思ったのです。地域に暮らす人、ひいては社会全体が幸せになってほしいと思い開業しました。
ハーバード大学で75年にわたって行われている健康と幸せに関する研究では、私たちを最も健康で幸せにするのは「良い人間関係である」という結果が出ています。私はいろいろなイベントやまちづくりなどをしてきましたが、それらは良い人間関係が作られることに通じます。私は医療という立場に軸足をおいていますから、医療によっていい人間関係をつくり、維持していくべきで、それを忘れてはいけないと思います。だから、コロナ禍のときの感染対策によって人のつながりをズタズタにしてしまったという反省が私にはあります。
もう一つ、医療機関の役割は「人を元気にする」ことだということです。当院に来てくれた患者さんには笑顔で、元気で前向きな気持ちで帰ってもらいたい。患者さんが検査結果を元にあれを食べるな、運動をしろ、薬を飲めなどと指示されてシュンとして帰っていく。医療機関に来たときよりも元気をなくして患者さんを帰してはいけないと思うんです。医療は人を元気にする仕事だとすれば、幸せな人生に関わり、命が尽きるときには在宅医療も含めて責任を持って看取りまでする。そういった医療者でありたいと考えています。

取材・文/坂弘康